公開日:2018.6.6
那覇空港から車で約2時間、本部半島の高台にあるのが世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつ今帰仁城跡です。今帰仁城は許田ICから約30km、美ら海水族館から車で約10分のところにあります。
駐車場にあるオレンジ色の屋根が目印のグスク交流センター。こちらで入城券を購入します。今帰仁城は公益財団法人日本城郭協会の日本100名城にも選ばれています。100名城スタンプはグスク交流センター内にあります。また、グスク交流センターにはジュース・かき氷・タコスなどの軽食や雑貨のお店が並びます。
グスク交流センターから道を渡ってすぐにでてくるのがこの少し低めの蛇行する石垣。これは外郭と呼ばれる今帰仁城7つある郭の中で一番下部にある郭です。面積は首里城と同じ。
これは14世紀後半に使われた、掘立柱建物跡です。礎石などを使わず、地面に穴を掘ってそのまま柱を立てて造る建物のことを言います。この遺構からは調理に使われた炉が発見されています。
按司と呼ばれる地域の有力者はお互いの領地を取り合いました。13世紀末、今帰仁の按司はこの土地にグスクを築くことを決め、人々はここに住み始めます。そして14世紀半ばには郭が連なる壮大な山城となりました。
14世紀に入ると按司が集約され今帰仁・浦添・大里がそれぞれ北山・中山・南山という三つの国に分かれました。ここ今帰仁城は北山王の居城でした。
北山王の怕尼芝(はにじ)は息子・珉(みん)の長男・攀安知(はんあんち)に今帰仁を治めるように命じます。この頃、北山の支配は沖縄の島々に留まらず、沖永良部島や与論島にまで及びます。また、中国と貿易していた記録が残されており、北山の栄華を感じさせます。
1416年(1422年という説もある)、注残の尚巴志によって北山は滅びます。その後、沖縄北部の謀反を防ぐため、尚巴志は次男の尚忠を今帰仁城に居城するように命じます。その後1429年に三山が統一され、琉球王朝となってからも監守制度は続きました。
1609年の薩摩郡の琉球侵攻で城が焼かれ、1665年に監守が完全に引上げてからは拝所として、そして祭事を行うところとして今もなお大切にされています。
今帰仁城に使われる石材は周辺から採れる2億3000万年前の中生代の石灰岩。その中からはアンモナイトの化石が見つかっています。また、古期石灰岩は琉球石灰岩より硬くて黒いのが特徴。堅固な城として知られていました。
琉球国由来記に「平郎門」という名称が出てきたため、現在もその名が使われています。現在の門は1962年に修復されたもの。横にある窓のような穴は狭間。
門を反対側から見てみると中に入れるようになっています。
平郎門の右手、谷のようにくぼんだ所がカーザフです。カーザフとは川迫、川の谷間のことをいいます。よく見ると下の方は自然の岩盤がむき出しとなっていて、地形を生かした城壁であったことがわかります。
平郎門からまっすぐに伸びる石の階段は1960年代に整備されました。その際に植えられたのがカンヒザクラです。
2月頃にはこの桜が満開になります。さすが沖縄、早いですね。
平郎門から入って右手、石垣に沿って曲がりくねった道が本来使われていた、旧道と呼ばれる道です。大きな岩盤に挟まれて道は狭く、急な登り道のため一度にたさんの人が通れないように造られています。
今帰仁城の北側で一番見晴らしがいいのが御内原(うーちーばる)。ここには女官が生活する北殿がありました。城内で最も重要な御嶽があり、かつては男子禁制でした。
御内原の真下に見える郭は大隅(うーしみ)と呼ばれる、馬の訓練場でした。ここからは大量の馬の骨が見つかっています。また、入城するときに見られる巨大な石垣は大隅のものです。
御内原からは大隅や外郭はもちろん、今帰仁村や島々を一望でき、晴れた日には与論島まで見渡せます。この景色は北山王の時代から変わりません。
御内原の南東、石垣が積み上げられた場所がテンチジアマチジ。今帰仁城の中でも最も神聖な拝所です。
主郭へ行ってみましょう。主郭では発掘調査が進み、築城されてから廃城となるまでの変遷が解説されています。この場所にグスクを築くと決めた頃、ここは岩山。建物を建てられるような平らな土地はありませんでした。
岩山の山頂部を削って平らにしてから、東西に石を積み上げます。その中に土を敷きついて固める、その上にまた土を敷いて固める、という版築(はんちく)という技法で広い面積を確保しました。ここでは13世紀末の地層から出てきた版築をパネルで展示しています。
主郭内には多くの礎石が置かれ、発掘調査によって分かった建物跡を見ることができます。
13世紀末~14世紀前期は掘っ立て柱の建物が建てられていました。14世紀中期になると礎石が敷かれ、正殿が建てられます。この頃になると中国の陶磁器が多く使われるようになります。
14世紀後半~15世紀前半は今帰仁城が最も栄えた時代。この頃の主郭は現在と同じ広さになります。中国産の陶磁器が大量に出土し、中国との貿易が行われていたことが書物に残されています。この頃の建物は主郭の南側に建てられていました。また、15世紀前半~17世紀前期の監守時代には主郭中央に建物が建てられていたことがわかっています。
主郭には火神の祠(ひのかんのほこら)があり、看守が首里へ引き上げた頃に設置されたといわれています。
主郭には小さな展望台が設置され、石垣を見ることができます。左手には海が。
右手には志慶真門郭(しげまじょうかく)を見ることができます。志慶真門郭には城主に仕えた身近な人々が住んでいたと言われています。ここ主郭から志慶真門郭までは階段でつながっています。さっそく降りてみましょう。
志慶真門郭では発掘調査によって4つの建物跡が見つかっています。杭を打たれているところがその場所です。
また、南側の石垣が崩れているところが門の跡。今帰仁城の裏門です。
志慶真門郭から主郭を見るとかなりの標高差があることがわかります。石は加工せずに積み上げる野面積み。巨大な遺構を前に圧倒されるばかりです。
今帰仁城跡の所要時間は1時間~1時間30分。合わせて今帰仁村歴史文化センターを見る場合は2時間くらい見ておきましょう。