公開日:2018.6.21
那覇から北へ約20km、東側に中城湾を臨む北中城村。海抜160mの丘陵地にそびえ立つ中城城跡(なかぐすくじょうあと)を紹介します。
かつての沖縄は按司と呼ばれる権力者が各地域を治めていました。按司はより大きな領地を求め争い、その時期にグスと呼ばれる防御施設が多く建てられました。
その後、北山・中山・南山の3つの大きな勢力に分かれます。これが三山時代。ちょうどその頃に中城城が建てられました。ただ、中城城はいつ誰が建てたのか詳しくわかっていません。一説によると先中城按司(さちなかぐすくあじ)が築城したと言われています。その後何度も増築を重ね、今の形が完成しました。
車を駐車場に停め、料金所で入場料を支払ってパンフレットをもらいます。(大人400円)料金所の横にトイレがあります。お城の中にはトイレがないので必ずこちらで済ませましょう。
中城城跡は公益財団法人日本城郭協会が選定する日本100名城に選ばれています。「日本100名城に行こう」というスタンプ帳があるのですが、実は私も集めています。料金所で声をかけるとスタンプを出してくれます。(スタンプ帳は中城城跡で販売していません。予め書店等で購入してください。)
料金所があるのは実は裏門で、正門は反対側にあります。歩き出したものの、めちゃめちゃ遠い。1km近くあるのだそう。
刺すような日差しの中、歩くこと徒歩2分。後ろから、
「乗っていきませんかー?」と。
何のためらいもなく、
「お願いします!」
と言って乗せてもらいました。こちらは護佐丸号。料金所から正門までの道のりをカートで送ってくれるボランティアです。(無料・予約不要)傾斜のある道なのでカートの利用をおすすめします。
スタートは巨大な琉球石灰岩。世界遺産の看板が目印です。
小高い丘を抜けると、そこは…
丘陵の上に築城された中城城。周囲を一望できることもここに建てられた理由のひとつに間違いありません。
実はこの石、石垣の一部です。長い年月をかけ緩んでしまった石垣を一度解体して積み直しをしています。解体する前の状態に戻せるように、ここにある石ひとつひとつに番号を振ってあります。気の遠くなるような作業ですが、後世に伝えていくためのとても重要な作業です。
南の郭の城壁にぽっかりと空けられたくぼみ。カンジャーガマと呼ばれる鍛冶屋跡と言われています。護佐丸が武器を造っていたという説もあるとか。まだ解明されていません。
そして気になるのが、城壁にある四角形。これは狭間といって物見や矢(鉄砲?)を放つのに使われる窓です。それにしても美しい。
サンゴが隆起してできる琉球石灰岩、この丘もそうしてできました。南の郭の下の方を見ると荒々しい岩肌がそのまま残され、元の地形を生かして作られたことがわかります。
中城城跡の西側にあるのが正門。かつてここには首里城のそれを彷彿させる櫓がありました。按司に会うために山を登り、まずこの正門を通る必要があります。城の顔である正門はさぞ豪華だったことでしょう。
正門前には大きな壕の跡が残っています。太平洋戦争も終盤、日本軍はここに壕を掘ろうとしますが、すぐに南に下るように指令が出たため、大きく破壊されることがありませんでした。そのため琉球時代の遺構が最も多く残されるグスクとして知られています。
切り石が美しい正門をくぐって西の郭へ。巨大な石垣がちらっと見えて胸が高鳴ります。
西の櫓は全長120m、南東側の郭の巨大な石垣が何層も連なって見える。この西の郭をはじめとする、南の郭、一の郭、二の郭は14世紀後半まで先中城按司が数世代にわたって築いたと言われています。
中城城は長い年月をかけて今の姿になったため、様々な石の積み方を見られることで知られています。どこが古くて、どこが新しいのか石の積み方で推測することができます。
石を加工せず、そのまま積み上げていく技法を野面積み(のづらづみ)といいます。比較的古い年代に使われます。
四角く加工した石をレンガのようにして積んでいく方法を布積み(ぬのづみ)といいます。石の目が横向きに続くのが特徴で、野面積みより後の時代の技法です。
石を多角形に加工し積み上げる技法を相方積み(あいかたづみ)といいます。高度な技法で、布積みより格段に強度が上がります。護佐丸が増築したとされる三の郭で見ることができます。
さて、順路に従い西の郭から南の郭に向かいましょう。私の背後に見えているのが一の郭の北側の城壁。
正門を見下ろしながら、そびえ立つ南の郭の城壁を横目に一気に登ります。
グスクには必ずといっていいほど御嶽(うたき)があります。御嶽は神様が降臨する神聖な場所とされ、人々は祈りを奉げます。それは今も変わることなく続けられ、グスクとは神聖な場所なのです。
グスクはお城と同じように防御施設として知られていますが、元々御嶽を守るための石垣だったのではないかという説もあるそうです。個人的にはその方がしっくりするんですよね。
中城城の中だけで8か所の拝所があるそう。写真は雨乞いの御嶽。
中城城は石垣でぐるっと囲われた郭と呼ばれるエリアが6つあります。また、それらの郭は連郭式といって、郭が並列に連なるように配置されています。南の郭から一の郭、二の郭、三の郭と直線状に並んでいます。
美しいアーチ門をくぐると
ここ一の郭は中城城で最も広い郭。かつて正殿があった場所。琉球王国の時代には間切番所といわれる現在でいう村役所が建てられます。沖縄県になってからは中城村役場として使われていましたが、沖縄戦で消失してしまいました。
一の郭では石垣の解体・復元作業の真っ最中。そんな今だからこそ見られるのが石垣の構造です。本土の石垣は通常、まず土を盛りその上に栗石と呼ばれる小さな石を置き、最後に表面の大きな石を積み上げて造ります。
しかし、一の郭で復元中の石垣を見るとわかりますが、石垣の内部もすべて石が詰まっています。亜熱帯気候の沖縄では雨が多く、内部を土にしてしまうと土に雨を含み石垣が崩れてしまうそうです。内部を石にしていることで水はけがよく、また沖縄は地震が少ないこともあり、石垣が崩れにくくなっています。
一の郭に入って右手には展望台が設置されています。
中城城は小高い丘の上に位置し、海側である南東は15mの崖、陸側の北西は斜面で囲まれ、地形を生かした守りやすくて攻められにくい山城を形成しています。
また、中城湾を一望し知念半島や勝連半島をはじめ、周囲の島々から東シナ海まで見渡せるこの景色には海からの攻撃に備える意味もあります。
展望台の先は石垣の上を歩けるようになっています。地形に合わせて美しく波打つような曲線はグスクならでは。本土のお城では見ることができません。
これは一の郭の端から二の郭を見下ろしたところ。グスクがなぜ曲線を描くのかわかっていません。もちろん単なる美的意識の違いなのかもしれませんが、グスクの御嶽に人々が祈りを奉げ続ける姿を見ると、神秘的なものを感じずにはいられません。
一の郭から二の郭へ
何度通ってもワクワクする、アーチ門の向こう
アーチ門をくぐると、二の郭が現れます。二の郭は石垣の曲線が本当に素晴らしい。
さっそく石垣へ
城壁の角のてっぺんが変わった形をしています。これは隅頭石(すみがしらいし)といって悪い気をはらうためにつけらるものといわれています。古くから中国と貿易があったため、多くの場所で風水の思想を見ることができます。
二の郭から三の郭を眺める
圧巻の曲線を楽しんで
ほぼ一周できる二の郭
野面積みの上に布積みのアーチ門が乗っています。おそらく造られた年代が異なることがわかります。
美しいアーチ門に後ろ髪をひかれつつ次の場所へ
下へ下へと続く石段、どこへ行くの?
実はウフガーという大井戸。もとは城の外にあった井戸を護佐丸が北の郭を増築して城内に取り入れたと言われています。今見られる石垣は16世紀頃に造られたものなのだそうです。
もともと有力な按司だった護佐丸は尚巴志の下、中山の武将として北山を滅ぼしました。その後、北山の監視のため座喜味城の築城を命じられ、居城とします。
その後、尚巴志が三山を統一して琉球王国が誕生しますが、勝連城をけん制するため、護佐丸は中城城の改築を命じられ、居城としました。
その頃、勢力を拡大した勝連城の阿麻和利は「護佐丸が謀反を企んでいる」と王に嘘の情報を吹き込み、王は阿麻和利に護佐丸の討伐を命じます。護佐丸は「王には逆らえません」と自ら命を絶ちました。そして嘘をついた阿麻和利も後に滅ぼされたと言われています。
護佐丸は中城城で北の郭と三の郭を増築したといわれています。このあたりの石垣は相方積みでできており、表面もなめらか。また、アーチ門を構成する石がとても大きいのが見て取れます。
崩れているものの隅頭石も見えます。
人の大きさでどれくらいの高さかわかっていただけるのではないでしょうか。また、二の郭は護佐丸より古い年代に建てられているため布積みです。
1853年開国をうながしたことで知られるペリー提督。日本本土に到着する前に沖縄に来ていました。その際、中城城の精巧さを見て感動し、同行していた絵師にスケッチを描かせます。そのスケッチはパンフレットに掲載されています。
その昔、グスクは300近くあったといわれています。後の大戦や開発でその多くが失われてしまいました。中城城跡は多くの遺構が残されているため、世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして2000年に登録されました。とても広いので見学するなら1時間半ほど見ておきましょう。